私を誘ってやまない谷

・ 行きたい釣り場
 待望の渓流釣りシーズン到来。行ってみたい釣り場がいくつも頭に浮かんで整理に 困る。
 過去にいい思いをした釣り場、あるいは足を運ぶ機会がなかった憧れの渓流など、 あそこにも行ってみたい、ここにも行ってみたいと大いに欲はかくものの、行ける回 数には限りがある。
   そこで優先順位を付けざるを得ないわけだが、その筆頭にくる釣り場となると、や はり過去にいい思いをした記憶が先に立つ。近場は別として、遠出をするなら、まず は間違いのない釣り場へ。そんな助平根性が、ついつい頭をもたげてしまうのだ。冒 険を嫌うわけではないけれど、いかんせん私も五十歳代の後半部。かなり保守的な傾 向に偏りつつある点については否定できない。
 そんなわけで、楽に入渓できて型のいい魚が期待できる(やはりジジイだね、これ は)釣り場がいくつか頭に浮かんできた。
 中でも、しきりに私を誘ってやまない谷がある。そこは秋田県米代水系の上流域に ある谷で、詳しく言うと阿仁川支流の打当川。さほど大きな谷ではないのだが、釣れ る渓魚の型がいい。

・米代水系とマタギの里
 下流域にあたる能代市を突っ切り、やがては日本海に注ぐ米代川の流程は136km で、あの雄物川を3kmばかり上回って県下随一。それだけに支流の数も多く、しかも そのほとんどが、渓流釣りの名川という評判をほしいままにしてきた。
 阿仁川、比立内川、藤琴川、粕毛川、早口川、小又川など、足を運ばないまでも、 名称だけは耳にしている。おそらくそんな方が大勢いるはずだ。特に阿仁川という名 称は、秋田マタギの里を流れる川という点でも知名度が高い。
 もう一度行ってみたい釣り場として私の頭に浮かんだ打当川は、その阿仁川の上流 部に注ぐ支流のひとつで、阿仁合線終点の比立内から真東に向かって徐々に高度を突 き上げていき、源頭を越えた先には国定公園の八幡平がある。
 打当川が阿仁川に合流する比立内、つまり釣り場の起点だが、そここそまさに秋田 マタギの中心地であって、古式豊かな伝統を受け継ぐ狩人たちが集う土地であった。
 今でこそマタギの生活は過去のものとなってしまったが、かつては山中深く分け入 り、クマ、カモシカ、サルなどの獲物を追って暮らしてきた。
 異様な狩装束と山言葉、狩の仕方や分配の仕方に見られる独特の方式、獲物を解体 する際の儀式や儀礼など、他に類がない風習や信仰が、今も比立内を中心に伝わって いる。
 秋田マタギが行き来した谷に、今も豊かな生命を保つヤマメとイワナ。打当川に は、そんな雰囲気が色濃く漂っているようで、それもまた堪らなくいい。

・谷のたたずまい
 ゴルジュが見え隠れする源流域を除けば、総体的に打当川の足場は悪くない。こと にヤマメ狙いの下流域は、車道が付かず離れずどこまでも続いている。
 車道が付かず離れずという点だが、計らずもそれが打当川を格上げしている。どう いうことかというと、車道があまり近すぎると景観をそこねるし、かといって、あま り遠すぎると入渓の便が悪い。つまり付かず離れずとは、入渓が楽な割には周囲の森 が厚く感じられるということなのだ。しかも釣れる魚は型揃い。そして伝説的なロマ ンを掻き立てる狩人の土地。
 欲張りだけは一丁前、けれど精の陰りが著しい五十歳代後半部にとっては、それこ そピタリの釣り場なのだ。
 打当川で最後にテンカラ竿を振ったのは数年前。同じ秋田県内だが、釣りに関連し た仕事を午後に控えていたので、川で過ごせる時間は朝のうちだけ。そんな慌ただし い中でのテンカラであった。

・ 野生のヤマメ
 流域にある温泉宿の近くに車を止めた私は、少しでも時間を稼ごうと、急ぎ支度を 終えて入渓した。
 深瀬と落ち込みの淵が連続する渓相は、以前訪れたときと変わりがなく、7月の緑 がしたたる周囲の森もそのまま残っていた。いい思いをさせてもらった過去の記憶が よみがえってくる。
 まずはひと安心といったところだが、ただし早朝から夏の陽射しに曝されていた川 の水温だけはいかんともしがたく、踏み込んだ淀みの当たりが温く感じられた。
 腰まで漬かって右岸の淀みを摺り足で歩き、落差1mばかりの落ち込み手前で靴底 を安定させた。緩い流れがウエーダーの太腿を洗う。淀みの水温よりも、いくらかは 低い。
 3・5mのテンカラ竿から繰り出したラインとハリスが宙を舞い、ハックルを厚め に巻いた毛バリが目論見どおり白泡の際に浮かんだ。浮いたままの姿勢で流れに押さ れて下っていく。
  2m近く下ったところで水面が割れた。酸素が豊富な白泡の下に潜んでいた魚に違 いない。だとすれば、高めの水温を見越してのポイント選びが的中したことになる。
 幅が広く、銀箔を張ったような魚体はヤマメ以外の何物でもない。ざっと見積もっ て30p弱。ずっしりと重そうないいヤマメだ。
 合わを裏切ることなく重量が竿に乗った。グリップを握る指がミシリと音を立てそ うなほど引きが強い。
 ヤマメは一旦水中に潜り、そしてラインとハリスの張力に負けて水面近くまで浮上 してきた。再び潜り、またもや浮上。
 テンカラの場合、ラインとハリスを足した寸法が竿よりかなり長い。したがって最 後の取り込みはラインを手繰り、次にハリスを手繰って行う。バレやハリス切れが起 こりやすいのはこのときなので、最も神経を使わなければならない。
 幸いにして、最後までハリスとハリ先が鈍ることなく働きをまっとうし、右手で 掬ったランディングネットに暴れるヤマメの体が納まった。
 グリズリーのハックルとクリーム色のボディー材を巻いた毛バリが、野生の光輝を 放つヤマメの口元を飾っていた。至福の一瞬。言うことなしの成果である。

・ リターンマッチ
 いくぶん型は落ちたものの、同じ落ち込みでさらにヤマメが2尾釣れた。
 それもあって、もう出ないだろうと思った油断がいけなかった。出ないどころか、 最初に釣った位置の反対側だが、4尾目のヤマメがやはり白泡の際で体もあらわに毛 バリを襲った。しかも明らかに尺を越えた大物だった。
 不意を突かれた恰好になってしまった私は立ち直れず、大合わせという最悪の事態 を招いてしまった。当然のことながら結果は合わせ切れで、大物のヤマメは閃きだけ を残して水中へ。しかもその時点でタイムオーバーとなってしまい、リターンマッチ もできずじまい。後ろ髪を引かれる思いで川を後にしなければならなかった。
 ゆえに完結しなかったそのときの打当川。いい思いと苦い思いが相半ばといったと ころだが、掻き立てられた闘志の熾火は今も消えずにくすぶっている。
 渓流シーズンの到来と共に、毎年のように私を誘う打当川。
 その理由は、楽に入渓できて型のいい魚が期待できるという点もさることながら、 いつかリターンマッチが叶えばと、そんな意味合いが多分にある。
 で、今年こそはと、しきりに思ってしまうのだ。



初出『ハローフィッシング』(週刊テレビ)

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