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・隠れ里 東京都奥多摩町に隣接する小菅村という人口千人ほどの山里は、都 心から2時間圏内という足を運びやすい位置にあるのだが、西のルート が大菩薩峠、北のルートが大丹波峠、南のそれが鶴峠と、三方ぐるりを 高い山々に囲まれ、唯一街へ下る東のルートも狭隘な谷、という閉ざさ れた地形のせいで、まるでテレビの『日本むかし話』に出てくるような、い たってのどかで素朴な空気に包まれて小ぢんまりと存在する。そんな 土地柄が私の性に合っているらしく、村内を穏やかに流れる小菅川へ釣 りに訪れる度に、身体の深部隅々から、余すことなく大きな息を吐き出す ことができる。巷間でこびり付いた精神の垢を、すっきりと洗い流してくれ る隠れ里。小菅村という山里には、まさしくそんな空気と雰囲気が溢れて いる。 | |
・渋いライズスポット 山々の緑が、幾分その濃さを増しつつある5月下旬。いつものように、 キャッチ&リリース区間の起点「すずめのお宿」下のカーブで、ヤマメの 渋いライズをテンカラで狙っていると、「どうですか」と後ろから声が掛か った。これもいつものことだから、振り返るまでもなく、役場の企画観光 課に勤務し、さらには漁協の理事にして監視員の加藤源久(もとひさ)さ ん、通称「もっちゃん」だとすぐに分かった。 私が「まだ釣れない」と答えると、「ああまだね」と嬉しそうに言う。もっち ゃんはテンカラ師で、それもかなりキャリアがあるものだから、しらずしら ずのうちにライバル意識が頭をもたげてしまうらしい。そのあたりの呼吸 を承知しているフライマンのレネ中山と、同じくマエストロ飯森が、両隣で 竿を振りつつクスクス笑っている。当のもっちゃんは、すかさずその間に 割り込んでテンカラ竿を振りはじめた。 | |
・賞賛すべきヘソ曲がり それにしても、ここのライズはほんと渋い。浅くて緩やかな流れのそここ こには、型のいいヤマメの頻繁なライズがいつもあるくせに、どのヤマメも なかなか毛バリをくわえようとはしない。毛バリを見切っているのか、それ ともハリス(ティペット)を見切ってしまうのか、とにかく利口この上ないヤマ メばかりなのだ。しっかりそのライズにハマッテしまい、一歩も動けずにキ ャストし続けるフライマンやテンカラ師を、ここへ来るたびに何人も見かけ る。50mも上手へ移動して、そこから上流を探っていけば、もっと楽に釣 れるのが分かってながら、それでは簡単すぎて面白くないからと、好んで 悩みに来るのだという賞賛に値するへそ曲がりも少なくない。32番などと いう粉のようなミッジフライ(極小の羽虫を模した毛バリ)に、0.1という蜘蛛 の糸よりも細いティペットを用意して、毎週そこ専門に通ってくるビート永田 という常連のフライマンなどは、それですっかり有名になってしまった。 | |
・新たなライズ カーブが終わる私の真正面で新たなライズが始まった。それは型のいい ヤマメのライズで、水面を流れる小型のカゲロウを盛んに捕食している。流 れの中央部に大きなかぶり石があるのだが、おそらくそのえぐれにでも潜 んでいたのだろう。 カゲロウのサイズに合わせ、16番のドライタイプの毛バリに付け替えてラ イズの上手1mの位置へキャスト。毛バリは流れなりにゆっくりと運ばれ、や がてライズがあった位置へ……。「ガバッ!」という水音と共にヤマメが毛バ リを襲った。間髪を入れずに合わせた竿に、したたかな重量が乗って水面 が大きく割れた。思いどおりの出方、思いどおりの合わせである。ヤマメは ハリスとラインを引き込んで盛んに潜ろうとする。竿を立てて引き寄せようと する私の力と、潜ろうとするヤマメのパワーが拮抗し、竿の曲がりが一段と 弧を深くする。 竿の弾力に抵抗しきれなくなったヤマメは、寄る気配を見せながらも、さ らに抵抗し続け、今度は水面近くで左右に走りはじめる。賞賛すべきファイ トだったが、今回は私に分があって、ついにヤマメはネットへ。 釣ったヤマメは幾分か尺に欠けはしたものの、リリースした手に残るずっ しりと重い記憶については、まったくのところ申し分ない。 | |
・時合 カゲロウの羽化が盛んになるにつれてヤマメたちの活性も上がってきた。 それに伴い、カーブに並んだ竿が忙しく立ちはじめる。 キヤッチ&リリース区間の起点、「すずめのお宿」下の気難しいカーブに も、ひとしきりヒットが続く時合が訪れようとしている。
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