

| |
・「降とまで人には見せて花曇り」 これは私の好きな俳句の一つですが、その作者は安政5年頃から明治20年まで、長野の伊那盆地あたりを、30年もの永きにわたって漂泊し続けた井上井月(せいげつ)という俳人です。 各地を釣り歩いていますと、川の周辺や、そこへ至る道路脇に設けられた句碑や歌碑を見かけることがしばしばあって、気に入った俳句や和歌に接したときなどは、これぞ釣りの余得とつくづく嬉しくなってしまいます。 冒頭に掲げた句も実はその一つなのですが、天竜水系の好釣り場として知られた三峰川の下流、美篶(みすず)という土地で、はじめてそれを目にしました。しかも単なる句碑ではなく、井上井月自身の墓碑に刻まれていた一句だったのです。 | |
・伊那盆地 伊那盆地を流れる天竜川は、中部甲信、関東の渓流師にとっては、かなり馴染み深い釣り場だと思いますが、私の場合もやはり同様です。 かつては茅野市から杖突街道を経て支流の三峰川へ、さらに下って伊那市あたりの天竜川まで足を伸ばし、本流育ちの大アマゴを狙いにちょくちょく出掛けていきました。 中央自動車道が開通してから後の天竜水系へは、東京からでも一足飛びのドライブで行けるようになりましたが、その当時は韮崎から先が完全に開通しておらず、現在と比べますと数倍の時間を要しました。 したがって訪れる釣り人の数も今よりはるかに少なく、平日などはどの谷筋に入ろうとも実に静かなもので、一渓一竿という贅沢な釣りが当たり前のようにできた時代でした。 たかだか一昔前、年数にしますと20年ほどになりましょうか、ともかくそんな状態だったわけですから、井上井月が最初に足を踏み入れたとされる安政5(1858)という古い時代の伊那盆地一帯は、さぞかし鄙びた土地であったろうと容易に想像できます。 | |
・井上井月 これは墓碑に接した後で知ったことですが、井月という俳人は一茶や芭蕉ほど著名ではないだけに、その出自や経歴に関しても謎だらけといった人物のようです。 『漂白俳人 井月』(井月会編)の年譜によりますと、文政5年(1822)越後長岡の武家または刀磨師の家に生まれ、17歳で江戸へ出て昌平黌(しょうへいこう)に入り、12〜13年間にわたって佐藤一齋に学んだとされています。 昌平黌は江戸幕府における儒学の総本山、しかも佐藤一齋といえば儒学だけでなく、朱子学、陽明学にも通じた大学者であって、門人には多くの秀才が輩出したことで知られています。その門人の一人で、しかも13間年も学んだことが事実だとすれば、当の井月も大変な知識人だったことになります。 そんな井月がふらりと伊那に現われたと言われているのが先にも記しましたように安政5年頃。そのときの出で立ちは「深編笠に紋付黒羽二重の小袖と白小倉の袴、腰間に竹光を差して」という様子が今に伝わっています。 以前は滑らかな光沢を放っていたはずの黒羽二重の紋付も羊羹色に色褪せて。尾羽打ち枯らした浪人姿がそこから彷彿としてきます。 尊皇と佐幕、両派相討つ長岡において、同僚に峰打ちを加えて出奔してきたというのが伊那に入ったときの伝聞ですが、これもまた定かではないようです。 いずれにしましても、昌平黌に学んだ長岡藩の秀才が、幕末という激動期、すなわち最も知識人を必要とした時代に中央とも藩とも関係のない辺鄙な伊那盆地へ流れてきたのですから、それにはよほどのわけがあってのことだろうと考えられます。そのあたりからも、自ずと漂白者然とした浪人姿の構図が浮かんできます。 まさに井月の日常は、どこから見ても漂白者そのものだったらしく、ことに晩年になってからはその傾向に拍車が掛かっていきます。連句や歌仙を巻いたり、あるいは頼まれて奉額を揮毫したり、祝い事の句や書を依頼されたりといった僅かな報酬を得る手段も途絶えがちとなって、終いには泊めてくれる家も無くなり、野外での昼寝や野宿もしばしばだったようです。 特に女衆からは嫌われていたらしく、シラミがたくさん付いた着のみ着のままの服装だったというのですから、そんな鼻つまみ状態も無理からぬところで、身から出た錆というべきなのかもしれません。 | |
・凛と輝き続けた作風 しかし、作り続けていた俳句には汚れや濁りの類などいささかなりとも付着せず、端正で流麗なその書体とあいまって、最後まで凛とした作風の輝きが失わなれなかったのですから不思議でなりません。 「松風を吐き出す月の光かな」 「水際や青田に風の見えて行く」 品がよく、どこまでも爽やかに薫る描写ではありませんか。技巧からではなく、至高の精神から自然に放たれた17音節。そんな作風に接した感動が自ずとこみあげてきてしまいます。 井月晩年の容姿は痩せて長身、禿頭で髭なくといった風体で、略伝を著した下島勲氏の記述によれば、とぼとぼと歩くそんな井月の腰にぶら下がった瓢箪をめがけ、土地の腕白たちが石を投げつけたとあります。その石の一つが後頭部に当たって出血しても、平然と歩いていく姿に恐怖すら覚えたとも書いています。 句作し続ける井月の精神は、痛みや出血すら超越するほど高みを飛翔していたということなのでしょうか。孤高でもなく、ましてや狷介でもなく、在るがままに生き、在るがままに悟るとでもいいましょうか、そうとでも考えなければ、井月の悲惨な日常と、凛とした香気が薫る作風との間に横たわる、およそ光年単位ともいうべき広大な開きが理解できません。かつて学んだ教養の裏打ちというよりも、よほど希有な凛質を持って生まれてきた人物なのかもしれません。 以前このコーナーでも書きましたが、今年の5月下旬、木曽福島の西野川へ釣りに行く機会を得ました。普通ですと中央自動車道を塩尻で降りて中山道を南下するのですが、そうせずにそのまま伊那インターまで走り抜け、そこから山越えの権兵衛街道を奈良井宿へ、という遠回りのルートを、敢えてそのとき私は選びました。伊那盆地一帯は、あたかも青葉の季節で、まさに井月の句にあったごとく、風が見えるように吹き抜けて行く様を実感することができました。 その折りは同乗者がいたこともあって残念ながらどこへも立ち寄ることなく走り抜けただけの伊那盆地でしたが、井月の句にあるごとく、遠回りした甲斐が充分にあった快適なドライブ気分を味わうことができました。 それはそれとして、来シーズンはもっとゆっくり伊那盆地を訪れ、天竜川本流や三峰川のアマゴを釣りながら井月の墓碑や句碑に改めて接し、それぞれの句を育んだ土壌や山川草木を久方ぶりに見つめ直してみたいと考えています。 | |
・「落ち栗の座を定めるや窪溜り」 30年にわたって伊那盆地を漂泊し続けた井月が、ボロをまとい、汚物まみれで乾田で行き倒れた後に、やっと安住の座を定めることができた墓碑に、好物だったという酒の一合も供えて。 | |
|
◇ 本文に記載以外の参考文献ならびに引用文献 『漂泊俳人 井月全集』(1974伊那毎日新聞社) 金子兜太『漂泊の俳人たち』(1999日本放送協会) 本文初出誌・『ハローフィッシング』(週刊テレビ)No.66 |