むかしばなし
ゆき

- 昔のこと。
雪深い山中に、小さな湯治場があった。
岩間に湧き出る温泉に屋根を渡し、竹垣で男女のしきりを作り、脱衣所をもうけただけの簡素なところである。むろん宿もなく、湯を使うのは人よりも鹿猿のほうが多いようなところだった。
粉雪の舞う中を、かんじきで雪を踏みしめながら、若い夫婦がやってきた。
夫は妻の手をひいて脱衣所の前までたどりつくと、何事か口論を始めた。
「…そうわがままをいうでない」夫の嘉平が言う。
「わしはおまえの身が心配でたまらないのだ。」
「私は大丈夫です。湯になど入らずとも、そのうちきっと良くなります」
うつむきながら、妻のゆきが答える。
嘉平は続けた。「だが、このままではわしのほうが心配でどうにかなってしまう。ここの湯は病に効くと評判のところだ。だまされたと思って入ってくれ…」
ゆきは黙ってうつむいている。
二人が夫婦となったのは、二月ほど前のことだった。
きっかけは、嘉平が、吹雪の中に行き倒れていたゆきを助けたことである。
ゆきは白い肌に赤いかんざしの映える美しい娘で、嘉平の心をとらえるには十分だった。
ゆきもまた嘉平の優しさに心ひかれ、夫婦の仲となった。
だが日がたつうちに、ゆきは目に見えて元気がなくなっていった。
春が近づくにつれて、少しずつ痩せ衰えていくようにも見えた。
うつむいたままのゆきに、嘉平は言った。
「なあ、ゆき。おまえがあまり湯を好きでないのは知っている」
いつも、ゆきは嘉平が寝た後で、ねるくなった風呂につかっている様子だった。
熱い湯には決して入ろうとはしなかった。
「だが、わしはおまえのためにいうのだ。ここの湯につかれば、きっと具合がよくなる。たのむから入ってくれ」
「湯に入らなくても、そのうち良くなります…」
ゆきはかたくなだった。
「どうしてもだめか?おまえのためなのだぞ?」
「はい…」
嘉平はため息をついて、ゆきに訴えるような眼差しを向けた。
「では…わたしのために、と言っても入ってはくれないか?」
ゆきは夫の顔をじっとみつめた。
嘉平の表情から、思いを察したようだった。
「…わかりました」と、小さくうなずく。
嘉平は先に湯に入ると、岩に背をあずけてゆきを待った。
三月三日には、村の仲間たちが集まって初婚の祝をしてくれることになっていた。
せめてゆきには、笑顔で祝いを受けられるようになってほしかった。
こうして何度も湯治に足を運べば、必ず身体の具合もよくなってくれるだろう。
竹垣の向こうの物音に、嘉平は声をかけた。
「入ったか、ゆき?」
「いま入ります」
「ゆき、おまえはきっと疲れているのだ。湯につかってゆっくりすれば、また元気になれるだろうよ」
「はい…」水音に続いて、かぼそい声が聞こえた。
「あなた…ありがとう」
嘉平は眉をひそめた。何か妙な感じがした。
「ゆき?」
返事はなかった。
「どうした、ゆき?」
竹垣の向こうでは真っ白な湯気が上がり、嘉平のまわりの湯は、みるみる冷たくなっていった。
嘉平は驚いて立ち上がった。
「ゆき?!」
水しぶきをあげながら駆け寄り、竹垣の向くを覗き込んだ。
嘉平は息をのんだ。
たちこめる湯気の中、岩場には霜が降り、天井の梁には、びっしりと巨大なつららが下がっていた。
ゆきの姿はどこにもなかった。
ただ、薄氷の漂う湯の中に、赤いかんざしが浮いているだけだった…。
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